昭和50年04月26日 朝の御理解



 御理解 第28節
 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除は出来ぬ。それで矢張り水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」

 元気な心でしかも一心に信心せよと。それは壮健で繁盛するよう元気で、しかも親の代より子の代、去年よりも今年と云った様に、繁盛して行く様に願へ、しかも元気でと云われる訳ですね。そこで此処ではその願いを、皆さん繰り返しなさっとる訳ですね。五つの願いがそれです。体の丈夫を願え。次には家庭に不和のなきが元。三つには所謂家繁盛子孫繁盛の事を願う。だから一心にその事を願って行くと、只元気な心で信心せよ、元気な心を出さなければ朝参りなど出来ませんね。
 だから朝参りを元気な心で一生懸命する、それしておればなら、家繁盛子孫繁盛健康のおかげ又は井戸は清水になるまで、又は病気災難は根の切れるまでのおかげが受けられるかと云うとそうではない。一心に信心せよと仰るその一心の置き所です。何処に焦点を置いて信心するかです。古い教会などになりますともう本当に若い時から年を取られる。もう七十にもその上もなって毎朝朝参りを続けておられると言った様な方が、何人か必ずあります。それでいて例えば子供も付いて来なければ。
 孫も付いて来ないと所謂子孫繁盛家繁盛になっていない。それはね只お参りをするそれだけでも確かに、そのおかげを頂く事は頂くですね。けれどもおかげの範囲が非常に狭い。此処にあるまめで繁盛する様にというおかげ、いうなら病気災難は根の切れるまでと云う様な信心は、どういう信心を一心にしたら良いかと。だからそこにね一心を、なら合楽でも日々お話を皆さん聞いて下さるのですから、もう大体合楽での信心の進め方と云うのは、もう毎日の様にという。
 ですから解っておるからそこに果たして一心が置いてあるかどうかと云う事、もう是に徹する以外はないと云う様な、私は強いものがあるかどうかと云う事を確かめて見にゃいけない。そしてそれがスッキリしたものになって来なければいけない。例えば自然に溶け込むと云う事は自然を生かす事だと溶け込むと云う事。この頃二十日の菊栄会は熊本の方でしたが玉名、玉名温泉で夕食をさせて貰うて。それから土地でその土地で一番芸達者と云われるその芸者さん、もうおばあさん芸者でしたけど来てました。
 まぁ大変芸達者な方で、まぁ皆んなを如何にも有頂天にした様に見えた。また皆んなが有頂天になった様にまぁ賑わして貰うた。ですからもう芸者さんも私達も、もう一緒になって云うなら溶け込んでしまって、何で下作な事をするじゃろうかとか、まぁ何と下作な歌を唄うじゃろうかとか、でなくてその中に私共一行が溶け込んでしまっているです。そして勿論相当皆さん酩酊したけれども、さあなら是で引上げようかと云う時には、私が浴衣から着物に着替える時、何人かの人が手伝って着物を着せて呉れる。
 自分達も別室に行ってから、ピシャッと洋服を着替えて来る。そしてちゃんと十一人の者が前に座っておかげ頂きましたと。もうそれこそ何と申しますか、芸者さん達がアッケに取られて、大体この方はどういうお方ですかという様な事。あなた方は大体どういう様なグループですかと、こんな行儀の良い方達は見た事がない。私はそう思うのですけどね。私が何時も言う様に柔らこう堅う行かにゃいかんとね。
 もう柔う行く時には、何処迄も柔こう行くじゃろうかと云う様に、さあそれが一つのキリが付かなければならん時には、もうそれこそ毅然としたもの、もう寄り付けない様な雰囲気が生れて来る。私は合楽の一つの流儀と言う物は、それだと思うです。所謂梅の花の信心と桜の花の信心が、こう一つにミックスされた様な感じがする。合楽の信心はですね私はそう言う、そこにね焦点を置く事なんです。
 自然に溶け込むと云う事はそう云う事なんです。だからそこに自然を生かす事の出来れる、云わば本当になんと言うか素晴らしいというか。私は毎朝三時半にここの石庭の所から天地を拝まして貰う。天を仰いでは、本当に天の様な広い大きな、そして限りない無条件の美しさという、そういう信心を身に付けさせて下さい、という内容の祈りをもって天を拝みます。地を拝む時には、何処迄深いか、それこそ黒々とした大地の言うならば寛大さとでも申しましょうか。
 黙って一切を受けて受けて受け抜かせて頂くという生き方を身に付けて下さい、言うなら天地の心を心とさせて下さる。是が私が天地を拝む時の祈りの内容です。それをどう云う事かというと、神様の心を心とさせて下さいと云う事と同んなじなんです。それが出来る事の為に、私共は日々本気で心行に取り組ませて頂くのです。本当にね心行に本気に取り組んどらんとですねいけませんよ。迂闊にしとらん様で迂闊にしとる。
 昨日研修会で御座いました。終りましてお風呂に入ろうと思うてもう肌着一枚になっております時に、あのうちょっと家内に用件が出来まして、家内がこちらに子供をお守りしょりましてから表の方にいるから、と言うから表玄関の方へ出て来ました。丁度まあだ帰られないでおられる佐田のおばあちゃんやら、光橋先生やら田中さんやらそこの上がり框の所に腰掛けておられた。そこに出て来たんです。
 そして上がりかけに、傘棚が整頓が出来てないから、こうガチャガチャに入れとるから、真直ぐこう傘を立てたりステッキやらを立てとったんです。パーッとそれこそ飛び掛かって来たものがあるのです。もう私はもうビックリしましてね、もう奇妙な声を出してから、そりゃもうそれこそ皆がビックリしとるとですたい。そして私が一番嫌いなのが(親先生、蛙が一番お嫌いのもの)あった。傘棚の中に居った訳たい。
 それであなた私の方に向かってパーッと飛びついて来たんでしょうが、そりゃもう奇妙な声が出ますよ。ビックリして二、三尺飛び退がりました(笑い)栄四郎がすぐそれを捕獲しましたけどね(一同大笑い)それがねもうそれこそ、何時も心行しとる積りですよね、なら例えばあげな小さい、ならもう蛙が青蛙が出だした訳なんですよね。それこんな小さな蛙が、所が私は是が一番もう嫌いと云うよりも、怖いというでしょうかね。ならそれがそこに居るからとち云うて、ジーッと見よりゃそげん怖い事はないです。
 所謂心行が出来とる時なら怖い事はないとですばってん、迂闊にしとる時にはもうそれこそびっくりします。それこそ丁度聡子、恵城そこに居りましたが、恵城に見せた所が恵城でも怖がらない様なお爺さんの私が怖がっとるのですからね。結局迂闊なんです。本当に目の詰まった信心しよるごたってから、そう云う事なんです。そりゃまあそこに三人居られた方達が、私が余り奇妙な声あれが自然に出るのですよね。
 もう本当にそれこそびっくり仰天して、ハアーとも悲鳴とも付かぬ声出したものですから、びっくりしているのです。私共大抵やれやれもう御用も済んだ、今から風呂にでも入ろうという時だから、そう言う風に油断が出来とる。どういう例えばそれこそ目の前が、真っ暗うなる様な事が起こっても、どっこいと受け止めれる信心を、それを私は最近は心行による以外ないと思うです。
 そういう信心をですしかもです、なら如何にも神の心を心としてというと大変なこう難しい様にあるけれども、只今私共が日々稽古をさせて頂いておる、成り行きを大切にする正規の事に御の字をつけさせて貰うと云う様な生き方、云うならばそれが相手が程度が、高いとか低いとか云うわけではないですけれどもです。それこそ柔らかいところには柔い中に入って行ける。
 堅い所へは堅い心で入ってこうね、溶け込んで行けれる様な心の自由自在な心の状態と云う物を何時も作らせて頂く稽古をさせて頂いて、愈々自然を生かす働きを頂かして貰う時に、それが病気であろうが災難であろうがです、その病気災難に溶け込んで行けれる様な信心をするからこそ。私は病気災難の根が切れるまでのおかげが受けられると思うし、又一心に壮健で繁盛する様に願えという、その一心と言うのがですそこに置かれる以外にないと私は思うです。一切の事柄の中に溶け込んで行けれる。
 昨日研修会この村内の方達が皆んな見えていませんでした。村内の婦人会ので総会があっておりました。それでも一寸顔出しがしたいからと、田中さんお届けがあってましたが、一寸顔出して帰られる時に、朝は総会方へ行き、昼ちょっとこちらのほうの会合に出て、それでから又行くという時にお届けをしておられました。もうそれこそ総会ですから、まぁ何ですかね、皆んなで歌を唄うたり踊ったり、もう本当に皆んなこうやって唄うたり踊ったりしている時が一番よかですのうやと。
 何時もこういう状態に何時もあらなければいけんですのうや、と云うて話して来ました、というてお届けがあっておりました。そしてなら今度は此処へ来ては、それこそまぁ堅い行き方ですね、信心の研修会に入っとられるもうどちらにでも。ね。あの人ごとしかとむない歌を唄ったり踊ったり、まあ気持ちが知れんと云った様な事ではいけんのです。唄うたり踊ったりしている時には、唄うたり踊ったりの中にスーット入って行けれる心の状態。一度そこにです意義を正さなければならん時にはスッと意義を正して。
 もうそれこそ二人見る様な言うならね、ことの出来れる一つのまぁ業とでも申しましょうかね。心の業(わざ)ですね、やっぱりそう云う私は稽古を、本気でさせて頂くと云う事に、一心にならなければいけない。そしてそうけんで繁盛するよう、元気で繁盛する様に願う。そういう意味で、例えば五つの願いを此処でさして頂いとる。五つの願いをするだけではいかん。
 只今申します様な、どう云う事の中にでも、溶け込んで行けれる事の為に、本気で心行さして貰うて。そこから自然を生かす働きを受けると云う事の中に、そのおかげの中に壮健も約束される。健康である事も約束される、繁盛すると言う事も約束される様なおかげになって来ると思うのです。只信心をしておればよいと云うのではいかん。一心にね此処と定める所を定めて、そこに愈々焦点を置いて。
 しかも絶対に間違いのない、云うなら神の心を心として、難しい様ですけどそれこそ二十何年間、此処ん所に焦点を置いて稽古をさせて頂いておる。天の心を心として限りなく美しく慣らせて頂く事に。地の心を心として寛大にならせて頂けれる稽古を積ませて貰う所に一心を置いて、そして壮健で繁盛する様に、しかもそれには生き生きとした元気な心で信心しなければならんと云う事を教えておられると思うです。
 只何十年間信心を毎朝朝参りを続けておる。成程それではいけない事はありませんけれども、信心の焦点が私は間違うておったら、此処で云われる様な子孫繁盛家繁盛、しかも壮健でと云った様なおかげにはならないと思うです。そういう信心がさして頂だけれる所に、昨日の御理解で申しますならね、絶対信が生れて来る。確信が生れて来る確信に満ちた生き生きとした心で、一心と定めた信心の、いうならば修行に取り組ませて頂かなきゃならんと思いますね。
   どうぞ。